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松江城 GoogleMap




史跡 松江城 昭和9年5月1日国指定 松江市殿町1−5 TEL0852-21-4030(松江城公園管理事務所)
堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉春とする説もある)は、慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20〜20米の内濠をめぐらす。
標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ六か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。
二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、後曲輪があった。城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が十代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多聞など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇願により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる威容を今も宍道湖畔に映し出している。
       昭和55年3月 松江市教育委員会
                                                                          松江城案内図

入場料:本丸への入場は無料・天守閣への登閣/大人550円・小人280円/団体(30名以上)大人440円・小人220円
開館時間:本丸への入場:4〜9月/7:00〜19:30・10〜3月/8:30〜17:00 天守閣への登閣:4〜9月/8:30〜18:30(受付は18:00まで)・10〜3月/8:30〜17:00(受付は16:30まで)
休日:無休
駐車場:大手前駐車場 レイクラインバス乗り場有り

現地案内板



興雲閣 千鳥橋 松江神社
鉄砲櫓跡 松江市街(二之丸下の段方面) 「祈祷櫓」跡
「祈祷櫓」跡
本丸にあった六つの櫓の一つ。
築城前には、この櫓の立ったところに塚があり、また榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり築城時にしばしば石垣が崩壊する怪異が生じた。
「祈祷櫓」の名称は、それを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈祷を続けたことに由来している。
この櫓は「東之出し矢櫓」とも記されているが幕末頃には伝説に基づいて「コノシロ櫓」とも呼ばれた。
二階建てで、一階は三間と六間の十八坪二階、は十坪であり、南側の武具櫓へは長屋造りの多聞で続き、北側へは瓦塀が続いていた。
コノシロ伝説ー寛永15年(1638)松江松平家初代藩主松平直政公が信州松本から入国し初めて松江城天守閣へ登ってみた。
最上階の天狗の間までさしかかると、そこに一人の美女が現われ「この城は、わらわが城なり」と言った。
直政公は、瞬時に「このしろ(城)が欲しければ明日にでも与えよう」と答えると、女は消えていった。
直政公が、魚の「コノシロ」を取り寄せ天狗の間に置かせておくと、その翌朝「コノシロ」を乗せておいた三宝が荒神櫓で発見され、「コノシロ」は無くなっていた。
その後二度と女が姿を見せることはなかった。この妖女は築城の際の人柱だと噂されたと言うが、直政公の機転力を示すものとしても伝えられている。
(現地案内板より)
乾櫓跡
ギリギリ井戸跡 馬洗池 二之丸下の段
ぎりぎり井戸跡、ぎりぎり門跡の由来
昔、馬を洗ったということから名前の付いた「馬洗池」の南にぎりぎり井戸があったと云われています。言い伝えによれば、築城工事の際、井戸の南側に築いた大きな石垣が突然崩れたので掘って調べたところ人間の頭骨と槍がありました。そこで、祈祷して霊を鎮め、工事を再開し石垣はやっと完成しました。
深く掘ったところが頭の頂部(つむじ、ぎりぎり)に似た井戸となったことから、この付近にあった井戸や門にこの名がついたと云われます。
(現地案内板より)
二之丸下ノ段
東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕末の頃、御破損方・寺社修理方(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。
堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。
御破損方・寺社修理方は発掘調査の結果、二棟の礎石建物跡が確認されたので同じ大きさの上屋を建て内部を茶店、売店に利用しています。
(現地案内板より)
                                                                          二之丸下の段案内図
松江城石垣 二之丸下の段 史跡松江城馬溜
史跡松江城馬溜
ここは、馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。入口には大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。西側にある高さ13mの高い石垣や、南・東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1mほどの腰石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。この入口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。
発掘調査より、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内掘へ通じる石組み水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかりました。
                                                                          
(現地案内板より)
松江城石垣 城山稲荷神社



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